生後1ヶ月と5日目の雑感
今日で小さい人が生まれてから1ヶ月と5日目。
外出の練習も兼ねて、午後の空いている時間に小さな人とスーパーへ。
まだ首も座らない人を抱っこ紐に抱き入れて、その小さな頭頂あたりに小声でであれこれ話しかけながら野菜や魚をカゴに入れる。
帰り道でふと自分が書いたブログ、というかそこに引用した川上未映子さんのエッセイを思い出して少しだけ涙がこぼれた。(前回のブログ)
生まれてまだ1ヶ月のあなたはもちろん今日のことなんて覚えてないでしょう。
ただ、2人でスーパーに行っただけの日。
でも私は覚えていたいと思ったのです。買い物帰りに一緒に浴びた冬の西陽のこと、冷たい風があなたにあたらないように、ぐっと小さなフードを目深に下ろしてあげたことを。
なかなかまとまった文章を書く時間が取れないから、しばらくは思いつくまま、こんな感じでその時々の気持ちを記録していこうと思います。インスタとあまり変わりばえしないけど…。
妊娠37週目: 臨月に、44歳になりました。
本日、無事に?44歳になりました。
今日は特に書きたいテーマがあるわけでもないので、誕生日記念につらつらとやりたいと思います。(^^)
前にもブログに書いたように、己が若い時分にも若いというこ
ナチュラルエイジングケアに熱心なのは、若く見せたいっていうよ
そんな私が人生で初めて年齢を気にしまくった日々、それが今年の
今となっては、あの頃の私と同じように不安な日々を過ごす高齢妊
それからほんの数ヶ月ではありますが、中の人と一心同体で過ごし
結果的に、お産はこれから、つまり仕事の大部分はこれからですが
あ、妊娠糖尿病の検査の数値がわずかに1上回り(2時間後の測定
血糖値を気にする、測定する、というのは初めての経験でしたが、
話を戻して、44歳。人生折り返しであり、新しい命を身ごもって
実は、妊娠出産とは関係ない試練も個人的にふりかかっていて、そのことを考
人生はコントロールできないことの方が断然多いです。向かってく
中の人、まだ出てきてもいないのに既に私に強さを与えてくれてあ
最後に、
川上未映子さんのエッセイ集から抜粋します。下記は、ちょうど昨晩お風呂で読んでいた部分。
(まあやっぱり、こうゆうの泣けてしまいます。)
朝。抱っこしたままでわたしの背中のほうにあるカーテンをあけて
オニ(赤ちゃんのニックネーム)の顔がぱあっと明るくなって、笑
(中略)
オニは、自分がこんなふうにして空をみていたこと、なにかを感じ
ママへ
私を生んで、育ててくれてありがとう。
夫の誕生日もあったので、先週末は家でゆっくりランチしたり、夜は美味しいものを食べに行ったり、
今週は連日友人に会えたり、産休ならではのゆったりした時間を過ごせています。明日から38週に突入です。
妊娠35週目 「人生の縮図、あるいは社会の縮図」
私が出産を予定しているのは、様々な診療科を含む大きな総合病院の産科です。(超高齢出産のため、ハイリスク妊娠対応の産科でなくてはなりませぬ)なので、総合受付や総合待合、カフェスペース、売店は老若男女で毎日ごった返しています。
健診の日は、毎回少し早めに着くように行き、天気の良い日はお庭のベンチで一休みしたり、病院内のカフェでカフェインレスのソイラテを飲んだりしてから産科に向かいます。
当然このカフェにも、通院している患者さんやご家族、入院中の方など、本当にいろいろな方が来ます。今朝も早めについて一休みしていると、おそらく60代後半〜70代のご夫婦がとなりのテーブルに向かい合わせに座っていました。
旦那様
「今日はこの後上(の階)に行くの?」
奥様
「そうです。先週やった検査の結果を聞いて、お薬を出してもらいますよ」
旦那様
「検査はいつするの?」
奥様
「先週やったじゃないですか」
旦那様
「え?そうだったかな?忘れちゃったよ」
このやり取りが、延々と繰り返されます。
5回目くらいの「今日はこの後上(の階)に行くの?」で、奥様はお返事をしなくなりました。ご主人もしばらくだまるのですが、数分経つとまた同じ質問をします。
何回かスルーしてしばらくした後、奥様が小さなため息をついてから、また同じ会話を再開していました。
今日のこのお二人の状況が当てはまるかは分かりませんが、これくらいの段階だとご主人自身も混乱の最中だったりするかもしれません。急に時系列がわからなくなったり、今自分が何をしているかわからない、ということには気づいていたり。自分はおかしくなってしまったかも?という、本人的にも辛い段階が必ずあります。
我が家の身内にも起きたことで、見慣れた、聞き慣れた光景だったので、しばらくぼんやりと聞き入ってしまいました。
そうこうしていると、自分の予約時間が近づいてきたので産科のフロアへ。
産科は小児保健科と同じ待合のため、毎回1か月健診の赤ちゃんと親御さんも次々にやってきます。
病院のコットに寝かせられた本当に小さな小さな赤ちゃん。泣く声もふにふにといった感じでなんだか虫みたい。かわいくてついつい見入ってしまいます。
斜め前の長椅子に、赤ちゃんとママ、おばあちゃま、上のお子さん(幼稚園生くらいの女の子)の4人連れがいました。やはり赤ちゃんは小さくてふにふにと泣いています。ママやおばあちゃまはもちろん、近くにいる人みんなが赤ちゃんに夢中で見とれています。
そんな中、赤ちゃんのお姉ちゃまである女の子、終始大きな声で歌いながら待合スペースを走り回ったりスキップしたり、どんなにママが「静かにして」と言ってもやめません…。
女の子はママの注意を自分に引きつけておきたくて必死です。その姿がなんとも意地らしく、切なくて、私はなんだか気づかぬうちに涙が出てしまいました。
ただ、声のトーンや走るスピードが次第にエスカレートしていき、ママとおばあちゃまの両方が最終的にはピシャリと叱り、女の子はママの胸に抱きついてわんわんと泣いていました。
ママは彼女を膝に乗せて、しっかりと抱きしめていました。お母さんですもの、上の子の状況だってそりゃ全部分かっていますよね…。
一方で、お姉ちゃんになったこの女の子は、自分に沸き起こっている感情がなんなのか、まだ頭では理解できていないことでしょう。でも、今までと何かが決定的に違うことには気がついていて、とても不安で焦っているんだと思います。健気ですね。
今日の出来事。
何かオチがあるわけではありません。
ここに出てきた人、誰一人として悪くないですよね。みんな、自分の今を精一杯生きている。
病院って、なんだか人生や社会の縮図のように感じることがあります。
今日はそんな終わり方です。
35週目
いよいよ今週末からは臨月です。
妊娠33週目 盛大な“子供がえり”か、はたまた、人生節目の“棚卸し”か
少し前から、幼い頃の家族間の記憶が、思い出す必要もない、
中学〜大学生時代からの友人なら、
具体的にどんなことに関する記憶かといえば、
家族内の空気に敏感で、何か違和感を感じると、おどけたり、おバカな末っ子を演じて場を和ませてきたような自覚があります。
もしこのまま両親が仲直りできなかったらとか(そんなに喧嘩していたわけではないです^^; むしろ子供の前で言い合いしてたことも一度もありません。私が勝手に今なんかちょっと変だなって気がついていただけ)、
なんていうか、当時の自分に駆け寄って、
なんだろうこの気持ち。自己愛ともちょっと違うんだけども…。
ともかく、わざわざとうの昔に処理済みのあれこれを、今、
ちなみに似たようなことは大人になってからも散々あったし、そっちも結構ややこしかったのですが(子供の頃のように“勝手に気がつく”と言うより、言いにくいことやデリケートなことに限って、私の所に愚痴や相談がくる➡︎結局言いにくいことは私が伝える羽目になる➡︎私自身とても疲弊する)まあ、私の役割だったのかなとも思うので、ここでは良しとします。
そしてこの期に及んで、全く私と性格の違うきょうだい、きっと私とは異なる風景を見て子供時代を過ごしたであろうことを、心底羨ましいと今更思ったりしているのです…。
なんだろう、この胸騒ぎ、
分かってほしいのか
認めてほしいのか
誰かに謝ってほしいのか…
散々もやもやした結果、あ、これって単なる「甘え」、もしくは盛大な「子供がえり」
あまりにも、大人気ないっていう自覚があって、しばらく1人で悶
私(かくかくしかじか)
「なんかこれって、最後の甘えって言うか、清算ていうか、
夫「うーん、そうやって、今のうち(出産前)
ほほう、そっかぁ…。
確かにね。
自分でも、出産前のこのタイミングに起きているってことは、
子供の頃を生々しく振り返ってモヤモヤするのは嫌なんだけど、
・子供って、かなり幼い時から、色々気づくし、感じてる。
・隠れて泣くような思いはさせたくないけど、
・感じ方受け止め方はほんとその子による。
・感受性は生まれ持った部分が大きいから、
上記は、子供時代を振り返って、“元子供”として思い当たること。
夫「棚卸しして、ちゃんと豆(赤子のこと)
私「言われてみたらそうかもね〜。でも、
夫「俺はそうなるんじゃないかと思うけどね。」
そうなの。親の目線になったら、
そしてもちろん私だけじゃなくて、誰しもが子供なりに小さな体と未熟な心で、その時々を目一杯生きてきて、傷や痛みと上手に付き合いながら大人になってきたわけですからね、何も特別なことではないのでしょう。ただ私の場合、なぜか出産前の今、走馬灯のようにそれが押し寄せていて、苛立っているという…。笑
そして、薄々気がついている方もいらっしゃるかもしれませんが、完全に過去にひっぱられてるわけですから、
2人の真ん中くらいの感じの子になるといいねー、
~我々は時々自分を追い込み過ぎる、頭でっかちな生き物 ~ ヨガと私 その1
必要以上に自分を責めてしまうことって、誰にでも経験がある、もしくはこれから経験する可能性のあることだと思います。そして、このことは、私がヨガをすること、指導することをライフワークにしようと思っている理由(2つあり)の1つでもあります。2つ目はまた別の機会に。
自殺量産国とよばれる国、日本
日本は先進国の中でも自殺率が高いことは良く知られています。中でも、未成年の自殺が増え続けていて、『「若年自殺者」を量産し続けている絶望の国』という悲しい記事も見かけました。本当に悲しい。
ニューズウィークの記事には、こんなことが書いてありました。
嗚呼、その感じ…。
自分はしくじってしまった。修正はきかないにちがいない。期待に応えられなかった、という悶々とした自己嫌悪と、そこからの這い上がり方が分からない絶望感。それが延々と続く毎日。誰にも言えずにどんどん膿んでしまい、元の悩みがもはや何だかわからなくなってしまうようなドロッとした暗闇。それが毎日続くと、今度は気分が少し晴れそうになると、そのことに罪悪感さえ覚えてしまったり。そんな悪循環、私にも経験があります。
小さな守られた世界しか知らない苦しみもある
19歳くらいの時だと思います。女子大の付属に中学受験で入り、高校・大学とエスカレーター式に上がりましたが、大学は都内なので、進学と同時に一人暮らしを始めて数か月が過ぎたころのことです。私の場合は、今思えば遅れてきた思春期のようなものでした。はじめは些細なつまずき、そこから思考が急速に空回りを始め、どんどん自分を追い込み始めてしまいます。
- がんばってもがんばらなくても、誰も自分を褒めてくれないから、やる気が出ない
(↑当たり前、自分のための勉強だからね。でもぶっちゃけ当時はこの状況でした)
- 「あれ?人から評価されるためだけに、今まで生きてきたの?私って最悪だ…。」
- 私なんのためにここ(大学)にきたのだろう
- っていうことは、好きな事、得意な事なんてそもそも自分には何もないのでは?
- 結局、何も自分で選んだことがない、全部準備されていたんだ…
- 今更どこからやりなおせば良いんだろう
- 親は、こんな出来損ないの私を知ったらがっかりするにちがいない、申し訳ない
みたいな不毛な妄想、自己嫌悪の無限ループ地獄です。笑
大人になった今振り返れば、どれも本当にどうってことのない些細な、贅沢とも言える悩み事。ハッキリ言って、生活があって、すべき役割があれば、こんなことを考える暇ないですからね。
でも、社会経験のない児童や未成年は、大人が想像している以上に、小さな小さな世界で生きています。確かに許されているけど、それ以外を知らないし、まだ価値観も中途半端。物事の判断基準だって、自分なりのものは完成されていません。
だから、周りとの同調が安心感につながるし、人の目や大人の評価が自分の価値だと思い込んでしまいがちです。自分が所属しているグループやコミュニティーの規則からはみ出してしまったら、もう自分は落ちこぼれなんだと思い込んでしまう。少なくとも私はそうだったし、そこから抜け出すのが結構大変だった。学生時代のことで、無駄に時間だけはたっぷりあったし…。
何が辛いかは人それぞれ、自分の物差しで決めつけるのはナンセンス
でも、実際は外の世界の方が断然広く、いろんな選択肢や価値観で溢れています。広い世界のほんの小さなスペースでつまずいただけなのに、その“小ささ”を知らないんです。モラトリアムの中にある子供や未成年にしか分かりえない閉塞感。そこから出ちゃえば全然大丈夫なのにね。だから、大人はそういう時に、可能性や広がりのヒントを与えてあげなきゃと思う。
ただし、決してその子(その人)が悩み苦しんでいることを、馬鹿にしたり、贅沢な悩みだなんて言って笑ったりしてはいけない、と私は思う。大人同士でもそう。成長過程や価値観が人それぞれということは、耐性だって人それぞれ。Aさんにとっては蚊に刺されたようなことでも、Bさんにとっては命に関わるほど辛いことかも知れない。耐性の違いでもあり、物差しの違いでもあるから、誰もそんなこと比較したり責める権利はない。特に事態が深刻な場合は。
それと、失敗や挫折を知らない怖さ、というのもあります。例えば、私の場合は大学生活と重なったわけですけど、これが社会人デビュー後に起こったら?本来は失敗したら、その理由を反省して、迷惑をかけた先にお詫びをして、リカバリーすれば良いこと。でも、失敗したことがない人が、急に否定されたり叱られたりしたら、ショックが大きすぎて、リカバリーにまわる前に、もう自分の部屋から怖くて出られなくなってしまうかも…。そうやって、実際出られなくなってしまった人たちが、世の中にはたくさんいると思います。
ちょっとしたボタンの掛け違いで、誰にだって起こりうる
そんなふうに書くと、甘やかされた人だけが、鬱や引きこもりになるように聞こえてしまうかもしれないけど、そうとは限らないし、そういう人たちを責めたところで意味はないんですね。それと、ここまでは子供や未成年に起こることとして書いてきましたが、大人だっていつそうなるかわかりません。ちょっと心が弱っているときに、不運や不幸が重なってコロコロと滑り落ちて這い上がるのが難しくなることだってあると思います。
大事なのは、できればそうならないこと、なってしまったらそこからなんとかして本人が抜け出すことだと思います。
<暗闇でとどまらないために>
人が成長していく過程で本当に大切なのは、失敗しないことじゃなくて、失敗した時にやり直せる智慧と体力を学んでいくことだと思うんです。
<暗闇から出られなくなってしまったら>
まずは、プロや家族の手を借りて外に出るきっかけをつかむこと。(「外に出る」っていうのは、文字どおりこもっている場所から外へ出るっていう場合もあれば、心を閉ざし続けている状態から少し先へ進むっていう意味でもあります。)
次の段階は、自分を受け入れる練習をしていくこと。そのためには、少しだけ何かを変える必要もあるかもしれない。自己受容の練習として、呼吸法やヨガが有効です。
「今ここ」を見つめることは、自分を知ること、受け入れること
受け入れる=積極的な肯定、と捉えるとその人の状況によっては難しいかも。(私はヨガ教師で臨床心理士や医師ではないので、心身のトラブルについて専門外なことを言うつもりはありませんし、言えません。)でも、急に自分を肯定できなくても、まずは、今自分がこの場所にいること、あるがままの自分をジャッジせずに眺める練習をはじめることはそんなにハードルが高くないです。過去のことや未来の不安を手放す練習にもなります。これに、瞑想やヨガが役に立つし、ヨガ教師やスタジオはその空間を提供することができます。下記のことからやってみるとよいかも。
こんなふうに、「気が付くこと」をはじめよう
- (呼吸)今、息を吸って吐いていることに集中。体のどの部分で、どんなことが起きている?
- (ヨガ)自分の体を呼吸に合わせて動かしてみる、その様子をただ注意深くひたすら見つめて、体の中で起こっていることに気が付いていく練習。ジャッジや判断はしない。「右と左で伸び方に差があるなあ」「昨日より胸が開いて気持ちいい」「指先がじんわりする」といった感じでいきましょう。
「ヨーガ チッタ ブリッティ ニローダハ」 ヨガとは心の動きを滅却すること
多くの闇も病みも、心の暴走が原因の1つなんじゃないかなって思います。例えば、普段から上記のような習慣があったら、暴走を前もって抑えられるかも知れないって思うんです。心が暴れだしたり、自分を責め始めたり、どんどんストーリーを作り出す前に、「今ここ」に戻ってこられたら…。
ヨガ(クリパルヨガ)と出会って、この感覚に気が付いた時に、「あの時、19歳の私にこの習慣があればなぁ」とちょっと思ったりしました。あんなに暴走しなくてすんだかも。笑 それも全部ひっくるめての私なんで、後悔はないですけどね。
巡ってきた波にただ乗る、という自然な生き方が必要な時もある
あるとき、私のヨガの流派=クリパルヨガの先生である三浦敏郎さんが、ティーチャートレーニングの最中にこんなことを言っていました。
「みんな、最近人生を力ずくでコントロールしようとし過ぎなんじゃないかな。時にそれは傲慢ということもあるよ。与えられた人生、巡ってきた波に乗ること、受け入れることも大切」
決して「受け身で生きていきましょう」ということではなく、人として謙虚であることの大切さや、私たちも自然の一部であるということ。力ずくで思い通りに人生をコントロールしようと躍起にならなくても、もっと自然で大らかな気持ちで、時には大きなものにゆだねてみても良いかもしれないですよね。
長く重めな独り言のまとめ
だらだらと例のごとく、長くなってしまいました。わかった風な論調ですけど、もちろん私だって上記のようにいつも心穏やかにやれているわけじゃありません。むしろ、超それができないタイプだからこそ必要性を実感しているし、意識的に実践していると言えます。あと、過剰な妄想で必要以上に自分を追い込んだ経験があるということ、単にそれだけですが、もう二度と繰り返したくないし、他の人にもしてほしくないなぁと思います。それが、ヨガをする理由であり、クリパルヨガの指導者であり続けたいという理由です。
理屈っぽくなっちゃったけど、クリパルヨガのクラス自体は(出てみればわかりますが)、どの先生のクラスも内容はとてもシンプル。ただ、ひとりひとりが、人と比較することなくひたすら集中できるように教師が計算して内容を構成しています。とっても気持ちが良いし、スッキリしますよ。
私は身重なため、しばらく指導はお休みとなってしまいますが、いつか、偶然にもこの長ったらしいブログを最後まで読んでくださったあなたとも、一緒にヨガができたら嬉しいです。または、ぜひ下北のクリパルジャパンで素晴らしい諸先生方のクラスを受けてください。今の自分を「客観的にただ見るだけの時間」は、意外とそのことで手放せることもあるし、気持ちがすっきり落ち着いたりするものです。
妊娠30週目 妊娠初期を振り返りつつ同士である超高齢妊婦さんに捧ぐ
妊娠すると、多くの女性が検索魔になるのではないでしょうか?だって、気になることをさっと打ち込めば、何かしらの情報がでてくるのですから、未知の世界をオロオロとさまよう初産婦が、検索しないわけはないですよね。
さまよう…、そう、特に安定期に入る前の、自分が妊娠していることを夫以外の誰にも言えない時期は、人にもよると思いますが、まだ到底新しい命を授かった幸福を甘受する余裕はありませんでした。私は。
「超高齢妊娠」という現実と向き合う
とくに、私の場合は「超・高齢妊娠」「超・高齢出産」という重圧で押しつぶされそうな、不安な毎日でした。
本当に、本当に、心細かった。まだ起きてもいないことに、くよくよ悩んでばかりで(そのころに関しては、不安が圧倒的で、ヨガ的な「今ここ」マインドどころじゃなかった ^^;)、夫はそんな私を励ますのに忙しかったことでしょう。ちょっと調べようものならば、次々にPCやスマホの画面に躍り出てくるハイリスク関連の情報の数々…。
- ●歳以上の自然妊娠の確率は●%以下
(これだけは、私の場合は妊娠発覚の時点でクリアしていたわけですが)
- 不妊治療したとしても●歳以上が妊娠に至る可能性は●%
- 妊娠したとしても、維持できる確率は●%
- 高齢で妊娠すると、●●(病名)や●●(病名)になるリスクが高い
- 40代の母親から生まれる子供が負うリスクの可能性
- その具体的な統計的確率
- ・・・・・
と延々と続きます。情報ソースは、医療機関や医師、病院、学術的な論文、ニュースメディア、プレママ向けのメディア、良く分からない(かなりリテラシーの怪しい)情報サイト等。もう、かたっぱしから見ていたと思います。
私は何か、いけないことをしてしまっているのか
特に40代以降の妊娠に関しての情報は厳しかったですね。中には、昨今の芸能人・有名人の高齢出産を批判するような論調のものも結構な数あり、イコール、自分が責められているような気がして悲しくなったりもしました。
また、より冷静に、現代の良からぬ傾向として、超高齢出産をそのリスクとともに理路整然と解説しているような記事もあり、これは本当にきつかった…。それなのに、止せばいいのにモリモリ読んでは傷つくことの繰り返し…。自分が高齢で妊娠したことで、お腹の中にいる小さな命に、いろいろなことを背負わせてしまうかもしれないという不安。なんとも言えない心細さや申し訳なさ、罪悪感まで感じました。
(※よーく注意深く読んでいくと、そういった記事の中にも、淡々と事実と問題点を指摘しつつも、当事者である高齢妊婦たちの立場を守ってくれているものもあります。私は特に、過去に仕事で何度かお会いしたことのある、とある女医さんの記事はとても好きでした。)
夫は、「もうそういう記事は読まないように。それよりも、この幸運に目を向けよう」と励まし続けてくれたのですが、根っからのリサーチャーの私はやめることができず、ようやく、調べては傷つく&不安になるの負のサイクルから抜け出したのは、やはり「安定期」を迎えたころだったでしょうか。いや、正確にはそれよりもっと後、胎動を感じるようになった20週頃からだったかもしれません。
40代初産婦のブログを血眼で探す日々 涙
あと、これはきっと40代の妊婦さん特有だと思うのですが…。一般的にも、医学的にも、いわゆる「高齢出産」というのは確か35歳以上(正式呼称は確か「高年出産」)、43歳の私からすると35歳って若いんです。w 自分のまわりでも一人目の出産が30代半ばという人がマジョリティだったので、「高齢妊娠」で検索してヒットしても、それくらいの年齢の方の情報はどんどんスキップしていました。^^;
もちろん、今思えば、妊婦は何歳であろうが不安だし、20代も40代も、いろいろなマイナートラブルに出会っていくわけなんですが、とにかく40代妊婦のリアルな情報が欲しかった!当初の私は。特に、自分と同じくらいの年齢の初産婦さんたちが、どんなふうに不安と向き合い、心を強く持って過ごしているのか知りたかったんです。それと、そこを乗り越えた先で、どんなマタニティライフ、子育てをしているのか、ただそれが知りたかった。だから必死で40代妊婦を探してました。もう、マニアかってくらい。w (今、私がこうやって自分に起きていることを文字にしているのも、そういった理由からです。どなたかの、ちょっとした気休めにでもなってくれたら、それでも嬉しいと思います。)
正直、これからだって何が起こるかは分からないし、子育て中のママたちの言葉をかりるなら「大変なのは産んでから!」が現実なんだとは思います。でも、あのつかみどころのない不安な日々のつらさは、そのさなかにいる人にしか分からないかもしれませんね。自分のことだけじゃなくて、自分が初めて授かった小さな小さな命に関わることなんですから。私の場合は不意打ちの自然妊娠という形でしたが、長期にわたる不妊治療の末に授かった命ならば尚のこと、不安は大きいことでしょう。
今、少しだけ落ち着いて妊娠初期の、ホルモンで精神も体調もぐらっぐらな自分を振り返って思うのは、つらかったけど、諸々納得して一周回って戻ってくるために私個人には必要な時間だったということ。ただ、40代の妊婦さん全員にこのプロセスが必要だとは思いません。もっと大らかで、ポジティブな人は通らない道かもしれないし、それに越したことはないとも思います。
暗黒の妊娠初期を振り返って、今、思うこと
超高齢妊娠・出産のリスクについて。これは無視することはできない統計的に実証されている数値です。人間は生き物だし、命には限りがある、年齢とともに体が変化するのは真実ですから。でも、逆に言えば、そういったリスクをあぶりだしている研究や統計の結果があるからこそ、医療的なバックアップや対策も進められているわけです。
ただし、その現象や数値と、自分に起きてることとの関連性をどうとらえるかはその人次第なんだと思います。(プラス、西洋医学であろうと東洋医学や自然療法的な考え方であろうと、できることなら、どんなことでも頭から鵜呑みにするのではなくて、自分の判断で納得して「選び取る」姿勢があると良いと思います)
今、私がどうとらえているかというと、上記と重複しますが、…
★現実は現実として認める。だってギネスブック的に伝わってくる海外のおばあさんの妊娠話は別として、何歳になっても元気に妊娠出産ができるわけではありませんから。自分の友人や知人、かわいい後輩に、「40代になっても絶対妊娠できるからまだまだ余裕もって大丈夫!」なんて口が裂けても言わないです。
★でも、今自分の体に起きていること、授かっている命、これも現実です。そして、確かに超少数派だけど、世の中にやっぱり40代半ばの初産婦さんいます。私とて、これからどうなるかは未知ですが、30週を迎えた今まで、母子ともに順調にきています。だから、同年代の妊婦さん、妊活中の人には、解釈や深読みなく、そういった存在がいるということを受け止めてもらえたらいいんじゃないかな、と思います。私もそうしてきました。
★何がどうして今にいたったか、これは結果論でしかありません。だから、今まで、今現在どんな生活(食事や運動、ストレスを溜めない工夫など)をしてきたかをありのままお伝えしたり、質問にお答えすることは喜んでしますが、妊娠との因果関係を強調するつもりはありません。でも、妊娠云々のことを別にしても、食や運動、心持ちがその人の人生をつくっていることは私の中では明白です。だから、健やかに心地よく生きるための工夫は、楽しみながら一生続けます。^^
You don’t have to worry. ~守ってあげたい~
長い独り言の終わりに
確か、妊娠21週目か22週目くらいのある日のこと。仕事から帰っていつもどおり夕飯の準備にとりかかりつつ、何の気なしにiTunesで音楽をシャッフル再生していました。一体どんなアルゴリズムなのか、どす黒いヒップホップの後に流れてきたのは、言わずと知れたあの方の名曲。(その時、実際に流れてきたのは他の人によるカバーです)
♪You don’t have to worry, worry.
♪守ってあげたい
♪あなたを苦しめる全てのことから
♪‘Cause I love you
♪‘Cause I love you
43歳、キッチンの床に膝から崩れ落ち、
しばらくの間、大きな声で泣き続けました。
中の人、聞いていますか?
あなたを授かった奇跡、喜びよりも先行して、
長い長い期間、不安や恐怖に支配されていたお母さんを
どうか、許してくれますか?
どんなときもあなたを守れるように、強くならなくてはね。
でもそうやって、お腹の中から
あなたが私を守ってくれているのかもしれないね。ありがとう。
お父さんと一緒に待っているよ。
そして、
まだ暗闇の中にいる超・高齢妊婦さんや、赤ちゃんを待っている人たちが、
光が差す方へ、一歩踏み出せますように
クリパルヨガのこと 〜そのままの自分でいい〜という自由
29週4日目になりました。相変わらず中の人は元気によく動いています。
でも今日は、妊娠のことではなくて、ヨガのことを書きます。妊娠のことではないんだけど、私をストレスリリース上手にしてくれたという意味では、関係が深いとも言えるような。。
今年の夏に、改めてクリパルヨガという流派で教師トレーニングを受け、無事認定を頂きました。今日はそんな大好きなクリパルヨガについて、なぜ魅力を感じたか、これからどんなスタンスでヨガ教師として伝えていきたいか、そんなお話です。
私がクリパルヨガと出会ったのは、全米ヨガアライアンスの指導者資格は既に取得した後のことです。ひととおりのティーチャートレーニングを終えてみて改めて、ヨガって何だろう、私が続けてきた理由ってなんだったかな、どうしてヨガを誰かに伝えたいと思ったんだっけ!?と、何故か路頭に迷ってしまったようなタイミングで、ヨガ講師でもある友人が勧めてくれたのが、クリパルのトシさん(三浦敏郎先生)のクラスでした。
そのままでいい、という自由と安心
まず、スタジオに足を踏み入れた瞬間の自由でおおらかな雰囲気に安心感を覚えました。どのヨガスタジオ、ワークショップでも感じたことのない「許されている」空気感。服装も人によって様々。ピタピタのレギンスを着ていないと浮く、なんてことはありません。(むしろ、ぴったりレギンス&ブラトップやタンクトップの人は、その時は一人もいなかったかも…。)
年齢も性別もバラバラ、皆単純に自分が動きやすいジャージやトレパン、Tシャツを着ています。もちろん、おしゃれなウエアがいけないということでもありません。そういう方もいます。^^(ちなみに、私も可愛くて動きやすいウエアが大好きです♪ でも同時に、着古しのTシャツとお尻の部分が飛び出しちゃっているようなスウェットパンツでヨガしている人の生き方にもとても共感します。本質的。)
つまり、本当の意味で自由。
嗚呼、ここではありのままの私でいていいのだ、という気持ちになります。ヨガって本来そういうもの。スタジオに入った瞬間に、まずそのことに改めて気づかされました。
クラスに初めて参加する人がいるか否かは、事前に担当の先生方はチェックしているので、始まる前に声をかけてくれます。私もトシさんにお声がけいただき、ヨガ歴やクリパルスタジオに今回来た理由を簡単に、気さくな感じで質問されました。さりげない歓迎の言葉もあり、安心感が増します。
集中することで「今・ここ」に留まることができる
その解放感
それからクラスが始まり、呼吸観察から呼吸法(センタリング)→ウォームアップ→アーサナ(ポーズ)→リラクゼーション→インテグレーション(統合)という順に進みます。
80分間のクラスを終えての体感は、とにかく体に“ものすごーく”集中できたということ。その集中により、下記のことが私の中で起こっていました。
- 気持ちが外に向かない
- ただひたすらヨガをしていた
- 自分の体と向き合って、微細な内側の変化や感覚に気付いている
- (トシさんの言葉によるリードで)それらの気付いたことを「ジャッジ」せずに、ただ受け入れることができている
先の予定やそのことに関する不安、過去に起こった嫌なこと、仕事のこと等々、私たちは日々何かをしながらでも、実に多くのことに心を動かしています。
ですが、この80分間、気持ちはどこにも動かず、「今・ここ」にいる自分の体にとどまっていました。とにかくすっきり。クラスを終えて、帰り際にトシさんに
「どうでしたか?」と聞かれ
「自分でも驚くほどに集中できました。頭も体もスッキリとした感じがします」と返答した覚えがあります。
人と比較することなく、
自分に向き合えるように計算されたクラス設計
そして帰り道で、更に様々なことに気が付き始めました。
- そういえば、ほとんどの時間目をつむったまま瞑想的にアーサナをとっていた
(教師の方をほとんど見なかった!つまり、言葉によるリードだけでスムーズに動けていた!)
- 教師が生徒を「アジャスト」しない=正そうとすることはしない。(のちに、クリパルヨガでは「アシスト」というスタンスをとっていることを知る)
- 教師の存在感が独特、教師が存在を主張しない。イメージとしては、つかず離れず見守ってくれている感じ
- 生徒一人ひとりが集中できるように、ものすごく計算されている気がする!
- 瞑想的な時間、と同時に体はしっかり使っていて、運動量的にも満足感が高い(もちろん運動の強度はクラスによります。私が最初に出たのは「モデレート」というクラス)
- クリパルヨガ、きっと奥が深い!他の先生のクラスも同様の体験ができるのだろうか?出てみよう!
そこから毎週、できる限りの時間(主に週末)を使って、下北沢のクリパルのスタジオの通うことになりました。通っている間、集中することでヨガ後に感じる解放感は、トシさん以外の先生のクラスを受けても共通していることがわかり、ますます、プラクティショナーの一人としてはクリパルでの練習が心地よい習慣となり、一方で私が伝えたいのは下記のようなヨガ(=私の感じているクリパルヨガの魅力)であるという確信が強まりました。
ヨガは目的ではなく、
心穏やかに楽しく生きるための手段である
- ポーズのカッコよさ、難易度の高いポーズの完成を最終目的とするのではなく、
- ヨガが心身のセルフケアの手段であること
- 人と比較しない、完全に個人的な体験としてのヨガであること
- 「今、ここ」に集中する瞑想的でマインドフルなヨガであること
ヨガという世界の中で、アーサナ(ポーズ)はひとつのエレメントに過ぎません。
ヨガをするというのは、人生をより穏やかに心楽しく過ごしていくための手段であるということ。私はこのスタンスで、ヨガを楽しみたいし、その魅力を伝えたいと思っています。
ですが、まずは出産!^^