あおいろ自由帳

ライター / ヨガ教師 中村亜津美(あずみ)

~我々は時々自分を追い込み過ぎる、頭でっかちな生き物 ~ ヨガと私 その1

必要以上に自分を責めてしまうことって、誰にでも経験がある、もしくはこれから経験する可能性のあることだと思います。そして、このことは、私がヨガをすること、指導することをライフワークにしようと思っている理由(2つあり)の1つでもあります。2つ目はまた別の機会に。

 

自殺量産国とよばれる国、日本

日本は先進国の中でも自殺率が高いことは良く知られています。中でも、未成年の自殺が増え続けていて、『「若年自殺者」を量産し続けている絶望の国』という悲しい記事も見かけました。本当に悲しい。

 

ニューズウィークの記事には、こんなことが書いてありました。

 

「子どもの自殺の心理として、『苦しみが永遠に続くという思い込み』『心理的視野狭窄(自殺以外の解決手段が浮かばなくなる)』というものがある(文科省『教師が知っておきたい子どもの自殺予防マニュアル』2009年)。こうした認知の歪みを是正する必要がある。」

 

嗚呼、その感じ…。

自分はしくじってしまった。修正はきかないにちがいない。期待に応えられなかった、という悶々とした自己嫌悪と、そこからの這い上がり方が分からない絶望感。それが延々と続く毎日。誰にも言えずにどんどん膿んでしまい、元の悩みがもはや何だかわからなくなってしまうようなドロッとした暗闇。それが毎日続くと、今度は気分が少し晴れそうになると、そのことに罪悪感さえ覚えてしまったり。そんな悪循環、私にも経験があります。

 

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数年前、実家にて(内容とは無関係です^^1)

 

 

小さな守られた世界しか知らない苦しみもある

19歳くらいの時だと思います。女子大の付属に中学受験で入り、高校・大学とエスカレーター式に上がりましたが、大学は都内なので、進学と同時に一人暮らしを始めて数か月が過ぎたころのことです。私の場合は、今思えば遅れてきた思春期のようなものでした。はじめは些細なつまずき、そこから思考が急速に空回りを始め、どんどん自分を追い込み始めてしまいます。

 

  • がんばってもがんばらなくても、誰も自分を褒めてくれないから、やる気が出ない

(↑当たり前、自分のための勉強だからね。でもぶっちゃけ当時はこの状況でした)

  • 「あれ?人から評価されるためだけに、今まで生きてきたの?私って最悪だ…。」
  • 私なんのためにここ(大学)にきたのだろう
  • っていうことは、好きな事、得意な事なんてそもそも自分には何もないのでは?
  • 結局、何も自分で選んだことがない、全部準備されていたんだ…
  • 今更どこからやりなおせば良いんだろう
  • 親は、こんな出来損ないの私を知ったらがっかりするにちがいない、申し訳ない

 

みたいな不毛な妄想、自己嫌悪の無限ループ地獄です。笑

大人になった今振り返れば、どれも本当にどうってことのない些細な、贅沢とも言える悩み事。ハッキリ言って、生活があって、すべき役割があれば、こんなことを考える暇ないですからね。

 

でも、社会経験のない児童や未成年は、大人が想像している以上に、小さな小さな世界で生きています。確かに許されているけど、それ以外を知らないし、まだ価値観も中途半端。物事の判断基準だって、自分なりのものは完成されていません。

 

だから、周りとの同調が安心感につながるし、人の目や大人の評価が自分の価値だと思い込んでしまいがちです。自分が所属しているグループやコミュニティーの規則からはみ出してしまったら、もう自分は落ちこぼれなんだと思い込んでしまう。少なくとも私はそうだったし、そこから抜け出すのが結構大変だった。学生時代のことで、無駄に時間だけはたっぷりあったし…。

 

何が辛いかは人それぞれ、自分の物差しで決めつけるのはナンセンス

でも、実際は外の世界の方が断然広く、いろんな選択肢や価値観で溢れています。広い世界のほんの小さなスペースでつまずいただけなのに、その“小ささ”を知らないんです。モラトリアムの中にある子供や未成年にしか分かりえない閉塞感。そこから出ちゃえば全然大丈夫なのにね。だから、大人はそういう時に、可能性や広がりのヒントを与えてあげなきゃと思う。

 

ただし、決してその子(その人)が悩み苦しんでいることを、馬鹿にしたり、贅沢な悩みだなんて言って笑ったりしてはいけない、と私は思う。大人同士でもそう。成長過程や価値観が人それぞれということは、耐性だって人それぞれ。Aさんにとっては蚊に刺されたようなことでも、Bさんにとっては命に関わるほど辛いことかも知れない。耐性の違いでもあり、物差しの違いでもあるから、誰もそんなこと比較したり責める権利はない。特に事態が深刻な場合は。

 

それと、失敗や挫折を知らない怖さ、というのもあります。例えば、私の場合は大学生活と重なったわけですけど、これが社会人デビュー後に起こったら?本来は失敗したら、その理由を反省して、迷惑をかけた先にお詫びをして、リカバリーすれば良いこと。でも、失敗したことがない人が、急に否定されたり叱られたりしたら、ショックが大きすぎて、リカバリーにまわる前に、もう自分の部屋から怖くて出られなくなってしまうかも…。そうやって、実際出られなくなってしまった人たちが、世の中にはたくさんいると思います。

 

ちょっとしたボタンの掛け違いで、誰にだって起こりうる

そんなふうに書くと、甘やかされた人だけが、鬱や引きこもりになるように聞こえてしまうかもしれないけど、そうとは限らないし、そういう人たちを責めたところで意味はないんですね。それと、ここまでは子供や未成年に起こることとして書いてきましたが、大人だっていつそうなるかわかりません。ちょっと心が弱っているときに、不運や不幸が重なってコロコロと滑り落ちて這い上がるのが難しくなることだってあると思います。

 

大事なのは、できればそうならないこと、なってしまったらそこからなんとかして本人が抜け出すことだと思います。

 

<暗闇でとどまらないために>

人が成長していく過程で本当に大切なのは、失敗しないことじゃなくて、失敗した時にやり直せる智慧と体力を学んでいくことだと思うんです。

 

<暗闇から出られなくなってしまったら>

まずは、プロや家族の手を借りて外に出るきっかけをつかむこと。(「外に出る」っていうのは、文字どおりこもっている場所から外へ出るっていう場合もあれば、心を閉ざし続けている状態から少し先へ進むっていう意味でもあります。)

次の段階は、自分を受け入れる練習をしていくこと。そのためには、少しだけ何かを変える必要もあるかもしれない。自己受容の練習として、呼吸法やヨガが有効です。

 

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「今ここ」を見つめることは、自分を知ること、受け入れること

受け入れる=積極的な肯定、と捉えるとその人の状況によっては難しいかも。(私はヨガ教師で臨床心理士や医師ではないので、心身のトラブルについて専門外なことを言うつもりはありませんし、言えません。)でも、急に自分を肯定できなくても、まずは、今自分がこの場所にいること、あるがままの自分をジャッジせずに眺める練習をはじめることはそんなにハードルが高くないです。過去のことや未来の不安を手放す練習にもなります。これに、瞑想やヨガが役に立つし、ヨガ教師やスタジオはその空間を提供することができます。下記のことからやってみるとよいかも。

  

   こんなふうに、「気が付くこと」をはじめよう

  • (呼吸)今、息を吸って吐いていることに集中。体のどの部分で、どんなことが起きている?
  • (ヨガ)自分の体を呼吸に合わせて動かしてみる、その様子をただ注意深くひたすら見つめて、体の中で起こっていることに気が付いていく練習。ジャッジや判断はしない。「右と左で伸び方に差があるなあ」「昨日より胸が開いて気持ちいい」「指先がじんわりする」といった感じでいきましょう。

 

「ヨーガ チッタ ブリッティ ニローダハ」 ヨガとは心の動きを滅却すること

多くの闇も病みも、心の暴走が原因の1つなんじゃないかなって思います。例えば、普段から上記のような習慣があったら、暴走を前もって抑えられるかも知れないって思うんです。心が暴れだしたり、自分を責め始めたり、どんどんストーリーを作り出す前に、「今ここ」に戻ってこられたら…。

 

ヨガ(クリパルヨガ)と出会って、この感覚に気が付いた時に、「あの時、19歳の私にこの習慣があればなぁ」とちょっと思ったりしました。あんなに暴走しなくてすんだかも。笑 それも全部ひっくるめての私なんで、後悔はないですけどね。

 

 

巡ってきた波にただ乗る、という自然な生き方が必要な時もある

あるとき、私のヨガの流派=クリパルヨガの先生である三浦敏郎さんが、ティーチャートレーニングの最中にこんなことを言っていました。

 

「みんな、最近人生を力ずくでコントロールしようとし過ぎなんじゃないかな。時にそれは傲慢ということもあるよ。与えられた人生、巡ってきた波に乗ること、受け入れることも大切」

 

決して「受け身で生きていきましょう」ということではなく、人として謙虚であることの大切さや、私たちも自然の一部であるということ。力ずくで思い通りに人生をコントロールしようと躍起にならなくても、もっと自然で大らかな気持ちで、時には大きなものにゆだねてみても良いかもしれないですよね。

 

 

長く重めな独り言のまとめ

だらだらと例のごとく、長くなってしまいました。わかった風な論調ですけど、もちろん私だって上記のようにいつも心穏やかにやれているわけじゃありません。むしろ、超それができないタイプだからこそ必要性を実感しているし、意識的に実践していると言えます。あと、過剰な妄想で必要以上に自分を追い込んだ経験があるということ、単にそれだけですが、もう二度と繰り返したくないし、他の人にもしてほしくないなぁと思います。それが、ヨガをする理由であり、クリパルヨガの指導者であり続けたいという理由です。

  

理屈っぽくなっちゃったけど、クリパルヨガのクラス自体は(出てみればわかりますが)、どの先生のクラスも内容はとてもシンプル。ただ、ひとりひとりが、人と比較することなくひたすら集中できるように教師が計算して内容を構成しています。とっても気持ちが良いし、スッキリしますよ。

 

私は身重なため、しばらく指導はお休みとなってしまいますが、いつか、偶然にもこの長ったらしいブログを最後まで読んでくださったあなたとも、一緒にヨガができたら嬉しいです。または、ぜひ下北のクリパルジャパンで素晴らしい諸先生方のクラスを受けてください。今の自分を「客観的にただ見るだけの時間」は、意外とそのことで手放せることもあるし、気持ちがすっきり落ち着いたりするものです。

 

 

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