あおいろ自由帳

ライター / ヨガ教師 中村亜津美(あずみ)

準備できることは、何もないかもしれないけど

 

年末年始にかけて、少しゆっくりできたのでこちらを読みました。

 

ジョーン・ディディオン

悲しみにある者

 

f:id:azuminakamura:20190203005702j:plain

 

ジョーン・ディディオンはアメリカの作家で、60年代のカウンターカルチャーを扱った小説やエッセイ、脚本などで知られています。

 

f:id:azuminakamura:20190203010325j:plain

 

 

『悲しみにある者』は、彼女が最愛の夫を亡くしてからの一年を、飾らない言葉で書き連ねた記録の書。極力、編集も加えられていないのではないかと思います。

 

誰かを感動させようとか、何かを理解させようという意図が感じられない、静かな、それでいて生々しい日々の記録です。

 

彼女が夫を突然亡くしたその日は、重篤な状態にある一人娘を夫婦で病院に見舞った日のこと。

 

この本の中で、何度も

「それは夕食の席でもやってくるではないか」

というような言葉でジョーンが表現しているように、愛する人との別れはいつやってくるか分からない。

そして、必ず誰にでも、いつかはやってくる。

 

 

証言のような言葉の数々に触れていても尚、その痛み、喪失感はきっとどの類の感情とも異なるのだろうと推し量るのが精一杯です。

 

どんなに準備をしようとも、覚悟を決めようとも、それには太刀打ちできないのではないかと感じます。

 

40代に入り、自分の両親も70代を迎え、身内が大きな病気をしたり闘病したこともあり、それまでとは死生観が変わってきたように思います。

 

どんな一日も、二度とない一日。だからこそ、今日、いま、ここをより大切に感じるようになってきました。

 

 歳を重ねて、

お肌が何度も曲がり角を迎えて忙しいとか、

何もしてないとお肉が知らぬ間にまとわりつくとか、

切ないことはあるにはあるけど、

それでも、あちこちぶつかりながら経験を重ねて、

面倒な自我肥大のタームも終え、

シンプルに今を大切にできるようになってきたことは幸せなことだと思っています。

 

 

ヨガの哲学にサントーシャというものがあります。

日本語で言えば、「足るを知る」。

 

欠けているものを探すのではなく、

今自分の中にあるもので充分満たされていることに気づいていく、ということ。

 

 

そう簡単に、毎日この状態でいられかと言うと、全く自信はありませんが、例えば、私の思考の癖

→まだ起こってもないことを勝手に心配する、ネガティブな可能性から想定してしまう

というサイクルからは解放されつつあるのかな、と最近感じます。

 

今、ここ、を味わうこと。

大切にすること。

 

人生一回ですから。

大きな悲しみに備えることはできなさそうですし。

 

 

そういえば、インスタでジョーン・ディディオンの#を見ていたら、海外のユーザーの投稿で、「もうカーダシアンはいいから、インスタにもっとディディオンを」みたいなものがあって、笑ってしまった。

  

ジョーン・ディディオン、若い頃も老いてからも、可憐でスタイリッシュで、だけど品があって、憧れずにはいられない雰囲気。

アイコニックだなぁ、と思ったら数年前のセリーヌの広告に登場していたのですね。

 

私のファースト・ディディオンはこの『悲しにみある者』なので、これから遡って『ベツレヘムに向け、身を屈めて』を読みたいと思います。

大きく社会・価値観がうねっている時代の記録って、とてもそそられるのです。

(ちなみに絶版なのか、アマゾンで中古でもけっこうお高かったです。)

 

f:id:azuminakamura:20190203010402j:plain